神宮球場をトコトン盛り上げる名脇役の実像

パトリック・ユウは挫折を乗り切り悟った

ぼくのDJとしての仕事の基準は、「楽しんでもらえるかどうか」。周りに楽しんでもらうには、まず自分もその世界を楽しむことが大切だと思っていますが、ぼく自身、幼い頃から野球が大好きで、今でも草野球球団「ゼッツ」の監督を務めたりするほど、この世界を愛しています。DJとしての仕事の入り口はディスコからはじまり、イベントやラジオなど、さまざまな場所で活動してきました。一度はそれらのキャリアを失ったこともありましたが、今、こうして好きだったスポーツの世界に、DJという形で身を置けることに、とても幸せを感じているんです。

「居場所がなければ作ればいい」少年野球チーム結成

パトリック氏:ぼくは、外資系の企業に勤めていたアメリカ人の父と、舞踊家の家系に生まれた韓国人の母との間に、東京の千駄ヶ谷で生まれました。ぼくが生まれて数年で、父はアメリカに帰国するのですが、実は両親の間には正式な婚姻関係はなく、母は息子であるぼくだけがアメリカに引き取られるのが心配で、5歳ぐらいになったぼくを抱えて神戸に引っ越したんです。東京生まれの神戸育ちというのは、そうした理由からですね。

ぼくが小さかった頃は、比較的外国人が多かった神戸でさえ、「ハーフ」は珍しい存在でした。地元の幼稚園に入園したのですが、何もしなくても目立ってしまい、何か事があると、すぐにやり玉に挙げられていました。「自分は何かいけないことをしたのかな」と、いつも腑に落ちないものを心の中に感じていたのですが、母に余計な心配をかけたくなかったので、そうした悩みは悟られないように、「いい子にしてなあかん」と、いつも思っていました。

――今のような、人前に出るようなタイプではなかった。

パトリック氏:むしろ、目立つことを極力避けていましたね。これは今でも少し影響しているのですが、自分ひとりの居場所や時間をつくれることを、心地よく感じていました。母はそんなぼくの萎縮ぶりをすぐに見抜いて、「このままではよくない。将来のために少しでも自由な環境に置こう」と、多くない稼ぎの中から高い学費を払って、ぼくを神戸三宮にあるインターナショナルスクール「聖ミカエル国際学校」に通わせてくれたんです。

そこから少しずつ、自分がしたいことを伸び伸びとできるようになり、性格も明るく行動的に変わっていきましたね。当時、野球選手はみんなが当たり前のように憧れる存在で、ぼくも同年代の子と同じように野球に興味を持つようになりました。

ところが、通っていた聖ミカエル国際学校には野球部がありませんでした。ぼくは、「チームがなければ作ればいい」と、みずから学校の先生やチームメイトの親を説得して「チーターズ」という草野球チームを作ってしまったんです。一丁前にスポーツ店の店員さんと交渉して、チームの名前が入ったユニフォームも安く作ってもらったりして(笑)。それくらい積極的な性格に変わっていったんです。

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