米国産牛肉の輸入再開で韓国“騒乱” 李明博大統領の前途多難 

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牛肉の安全性から政治問題へ飛び火

「牛肉の安全性を理由に輸入再開反対に同調してくれるのはありがたいのだが、集会参加者は趣旨をどこか誤解しているようだ……」

抗議集会が始まって一月経ったころ、韓国のある畜産農家は戸惑いを隠せないようにこう漏らした。韓国の畜産農家は、当初から米国産牛肉の輸入阻止をはじめ、輸入肉の安全性の確保を強く求めていた。今回の問題でも先頭となって運動していた。ところが、途中から集会の雰囲気が変質していった、と証言する。

当初はプラカードには「牛肉輸入反対」の文字が躍っていたが、6月に入ると今度は「李明博退陣」と記したプラカードが多くなり、それからは徐々に牛肉輸入の文字が消えていったという。その後も反対集会の参加者は膨れ上がり、ついに全国で数十万人規模に達した。

事態が事ここに至ったのも、まさに「経済大統領」との呼び声が高かった李明博大統領に対する国民の「落胆」と「失望」からきている。「経済を立て直す」ために当選したのに、なんら成果がない。就任3カ月で果実を求めるのはあまりに酷ではないかと、外国からはそんな同情の声も聞こえそうだが、韓国国民の「時間軸」は異なる。

盧武鉉・前政権から経済回復を千秋の思いで待って、待ち望んできたのだ。それが「経済大統領」に代わってもまだよくならない。国民にとってこれ以上の我慢は、許されなかったのだろう。

前政権の経済運営はマクロ的には悪くなかった。経済成長率も4%台と安定していたが、国民の皮膚感覚での経済は非常に厳しかったのだ。一つには大学新卒をはじめとした20歳代の就職難と若者の高い失業率。公共料金など物価も上昇、貧富の差も拡大していた。

そんな逼塞(ひっそく)感をたたき潰してくれる「成長による経済回復」を掲げた李大統領の誕生に、国民は待望のヒーローとして夢を重ねた。だからこそ、夢からさめた“反動”が、早くも爆発してしまったというわけだ。

一方で、「すべては、傲慢からくる大統領側のミスリード」(小針進・静岡県立大学教授)と指摘する声もある。大統領選での高い得票率に舞い上がり、自分は国民から強く支持されていると、李大統領や大統領府のスタッフは驕ってしまった。慶應義塾大学の西野純也・専任講師も「圧倒的な得票率で、自分の実力に対する国民の支持を誤解したのでは」と言う。

米国産牛肉の輸入再開や教育改革、公共企業の民営化、全国を縦断する運河の建設--。当選から就任までの間に、矢継ぎ早に打ち出した政策は、すべて李大統領の「トップダウン」で打ち出したものだ。しかし、大勝利の美酒に酔う李大統領に、国民は彼の「傲慢な正体」を見て、失望の中で離反していったのだ。

教育改革への反発で若者がデモに参加

「われわれを暴徒とでも思っているのか……」。デモを鎮圧する警察の行動を目の当たりにした60歳代の市民は、決して消えぬ記憶の残像に思いを寄せていた。それは、70年代の軍事政権が反政府デモに参加した左翼学生に、殴る蹴るの暴行を加えながら鎮圧していた光景だったという。

また鎮圧の光景がネットで次々と配信されたことで、公権力の横暴な対応が国民感情を逆なでし、反政府集会をあおった面も否定できない。

左右の思想的対立がほぼ消滅したかのような日本と比べ、韓国は左右の二極比較がまだ可能な国である。 実際、李大統領以前に、金大中(キムデジュン)、盧武鉉と10年間、左翼政権が続いた。そして後半5年間の盧武鉉政権は市民運動家などが多数政権に参加したものの、政策は迷走。その混乱ぶりは「アマチュア政権」と揶揄され、政権半ばからは「盧武鉉のやることだから」と国民の多くがあきらめ、左派は身の置き所がなく、悶々としていた。

そのためか、集会の規模が拡大し始め、やや過激な運動が起こるころには「牛肉問題を左派が利用している」との声が強まった。事実、李大統領も「左翼勢力に市民が操られている」と考えていたようだ。だが、この見方は一面的にすぎない。「左翼勢力がデモや集会のコアではない」と西野氏も説明する。

集会やデモの中には小・中学生や学生など、多くの若者が参加していた。それは李政権の主要政策の一つ、教育改革に向けられた反発でもあるからだ。この中には全授業を英語で実施する「英語公教育化」や、高校に市場原理を導入して競争させる「自律教育」などがあり、発表直後から教育現場で激しい動揺を招いていた。その動揺から直接影響を受けるのは、若者だ。彼らの素朴な反発が、若者や家族連れを集会へと足を向けさせたのだ。

与党代表を選出したが事態収拾は未知数

牛肉問題では米国側と追加交渉を行い、問題となっていた「月齢30カ月以上の牛肉は消費者の信頼が回復されるまで輸入しない」ことで合意。6月26日には官報で告示した。

一度合意した内容を覆そうと「再交渉」を求める市民が多かったが、国際慣例上、それは難しい。とはいえ、米国側も韓国での反米感情の高まりに配慮し、追加交渉を受け入れ、合意に至ったようだ。

だが、韓国の政治は今、事実上ストップしている状態だ。4月に行われた総選挙で当選した議員らは、国会開会予定の6月を過ぎても、まだ一度も登院していない。野党・統合民主党が今回の事態を理由に開会を拒否しているのだ。また、与党・ハンナラ党も大統領派と非大統領派に分裂状態。大統領派の中にも大統領と距離を置く議員も増えている。

ハンナラ党は7月3日に元国会副議長で李大統領派の朴熹太(パクヒテ)氏を代表に選出した。とはいえ、7日の内閣改造と併せても、今回の事態収拾が図られるかは未知数である。 


(写真:JMPA) 

福田 恵介 東洋経済 解説部コラムニスト

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ふくだ けいすけ / Keisuke Fukuda

1968年長崎県生まれ。神戸市外国語大学外国語学部ロシア学科卒。毎日新聞記者を経て、1992年東洋経済新報社入社。1999年から1年間、韓国・延世大学留学。著書に『図解 金正日と北朝鮮問題』(東洋経済新報社)、訳書に『朝鮮半島のいちばん長い日』『サムスン電子』『サムスンCEO』『李健煕(イ・ゴンヒ)―サムスンの孤独な帝王』『アン・チョルス 経営の原則』(すべて、東洋経済新報社)など。

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