厚木5歳児衰弱死事件が示す「法医学の限界」 作られた「残酷な父」というストーリー

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R君の司法解剖を担当した大澤医師も意見書を出した。R君の遺体は「蚕食」という昆虫類が遺体から栄養を摂取する段階を経ていたり、カビにより骨頭部が変形しているなど、亡くなった時点の骨の状態と発見時の骨の状態が大きく異なること、また、遺体のレントゲン写真は歯科用のハンディな装置で撮影したもので、そこから骨密度、骨量、緻密骨の厚さを述べるのは適切ではないと書かれていた。

二審はR君の遺体に対して、「右手首の屈曲が拘縮であると説明しながら、左手首に同様の屈曲がないこと」を挙げ、「A医師の証言の信用性を高く評価できるかについても、疑問が残る」とした。そして、最終的に「大澤医師の証言が説得的だ」と結論づけた。

そのようにして二審で「拘縮」は翻った。Sは「殺人罪にならなくてホッとした」と手紙を書いてきた。ただし、二審でもR君が亡くなる直前の食事の回数は翻らず、「単独犯の保護責任者遺棄致死の事案の中では最も重い部類に属する」として、懲役12年となった。

なお筆者はA医師に、改めて意見を聞いたが、取材は受けないとのことだった。また、小児の放射線科医であるB医師にも、取材を依頼したが、「証言の妥当性の判断は法廷の場に委ねる」とのことで話は聞けなかった。

育てる力が乏しい親、それを支えない社会

裁判の中で父親のSは、知的能力の低さも示された。だが、一方で職場での評価は高かった。二審の判決文は「1人で養育することに困難があったのであれば、公の援助を求めるなど取りうる手段は多く存在していた」「知的能力が若干通常人よりも劣っていたとはいえ、被告人の養育の点以外は通常の社会生活を送っていた被告人にとって、そのようなほかの手段を求めることが困難であったともいえない」とする。公的な支援を求めなかったことが懲役12年の重さとなった。

弱さを抱えた人間が支援を求めないということは、彼個人の課題なのか。R君の失われた命は二度と戻らない。その事実は重い。だが、それは父親Sを特異な人物として、社会から長期に隔離すれば済む話なのか。Sは「やはり今後、2度と同じような事件は起こしてほしくありません。助けを求めている人はたくさんいると思います」と手紙に書いている。

虐待対応の現場で話を聞けば、知的な力がボーダーと思われる親たちがその意図はなくても、支援を求められずに、結果的に子どもに「虐待」してしまう例は頻発している。社会の中で孤立するのは、力の乏しい親たちだ。

R君が亡くなるまでの2年間、R君の姿は父親のS以外、誰の目にも留まらず、誰も危機感を抱かなかった。なぜ、そのようなことが起きえたのか。

大澤教授の司法解剖によれば、R君の身長は101センチメートル、頭囲、歯の育ちは5歳児相当だった。つまり、父親と2人きりで暮らした2年間、曲がりなりにも成長していた。本格的なネグレクトを受けた子どもは成長が止まることが知られている。

父子の間に何が起きていたのか。司法は、もう一歩踏み込んで、虐待の仕組みも含めた現代の科学に沿って事件を読み解く必要があったのではないか。

杉山 春 ルポライター

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すぎやま はる / Haru Sugiyama

1958年生まれ。雑誌記者を経て、フリーのルポライター。著書に、小学館ノンフィクション大賞を受賞した『ネグレクト―育児放棄 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館、2007年)、『移民環流―南米から帰ってくる日系人たち』(新潮社、2008年)『ルポ 虐待―大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書、2013年)『家族幻想―「ひきこもり」から問う』(ちくま新書、2016年)など。

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