(第22回)数学大国江戸の日本~地方に広まる和算~(その3)

桜井進

和算の終焉

●1872年(明治5年)学制発布

 新政府は明治5年、学制を発布しました。学校の数学は洋算が採用されることになったのです。実はその直前まで和算が学校の数学になる予定でした。新政府は和算家に和算による新教科書を編纂させていました。しかし、欧化政策の流れに逆らうことはできず、日本は西洋数学(洋算)で突き進んでいく決断をしたのでした。ここから和算は終焉に向かって突き進んでいくことになったのです。

●1872年改暦、明治5年12月3日=明治6年1月1日

 学制が発布された後、明治5年12月3日、それは太陰暦最後の日であり太陽暦が始まった最初の日、明治6年1月1日でした。この改暦改革を行った中心人物が和算家内田五観(うちだいつみ、1805~1882)でした。11歳で関流数学に入門し、18歳で関流免許皆伝を受けています。暦学をインド暦法の釈円通(しゃくえんつう)に、蘭学を高野長英に学んでいます。数学者内田五観の名は「ソディの6球連鎖の定理」をヨーロッパに先んじて解いていたことで知られています。

ソディの6球連鎖の定理
 球Oに内接する球AとBがある。球AとBは外接している。このとき、球Oに内接し球AとBに外接する連鎖する球は6個に限られる。
ソディの6球連鎖
 フレドリック・ソディ(1877~1956、1921 年ノーベル化学賞受賞)が1936年に発表した定理ですが、内田はすでにその100年以上前の1822年に神奈川県の寒川神社の算額に発表していたのです。
 暦は江戸時代、天文方という役所で研究されていましたが、明治政府はこれを天文暦道局、その後文部省天文局として研究を続けました。内田はここで指揮をとり、改暦をすべきである結論をだすことになったのです。この改暦の成功は和算の実力を示す大きな証拠といえるでしょう。

●1877年(明治10年)、東京数学会社設立

 内田五観の下にいたのが福田理軒(1815~1889)という和算家でした。明治10年、福田理軒らが設立したのが「東京数学会社」でした。これは日本で最初の学会だったのです。当時の和算家らのほとんどが参加して組織された数学研究の最高機関でした。現在の日本数学会、日本物理学会につながっています。この民間組織には和算家の他、東京大学初の日本人数学教授になる菊池大麓(きくちだいろく、1855~1917)や海軍、陸軍の人たちもいたのです。
 福田理軒は自らの塾、順天堂塾をつくり、さらには宇宙塾順天求合社という測量のエキスパートを養成する会社組織をつくり明治新政府に人材を送り込んでいます。

福田理軒<画像クリックで拡大> 順天堂塾<画像クリックで拡大>

 福田理軒はあくまでも和算家として洋算とつきあう姿勢を崩すことはありませんでした。学制発布の後も東京数学会社には和算と洋算が混在していたのです。福田理軒は明治8年の著書「筆算通書」の序の中で次のように言っています。
 『童子問テ曰ク、皇算洋算何レカ優り何レカ劣レルヤ。曰ク、算ハコレ自然二生ズ。物アレバ必ズ象アリ。象アレバ必ズ数アリ。数ハ必ズ理ニ原キテ以テ其術ヲ生ズ。故二其理万邦ミナ同ク、何ゾ優劣アラン。畢竟優劣ヲ云フ者ハ其学ノ生熟ヨリシテ論ヲ成スノミ…』
 和算家福田理軒は洋算を学び、和算が追求するものと変わりないことをつかんでいたことがわかります。本質を見極めることこそ数学の重要なポイントですが、和算家として福田理軒は数学の本質を見極めていたのです。

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