オバマが対日貿易を問題視しない理由

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シャーロック・ホームズの作品の中でいちばん有名な推理は、『白銀号事件』の中の“ほえない犬”ではないだろうか。この「一見当たり前に思えることが実は重大な意味を持つ」という推理に従えば、米大統領選挙において対日貿易がほとんど争点にならないという現状は、まさに理由をさぐる価値がある。

通商問題は民主党の予備選挙で焦点となったが、それはオバマ上院議員とクリントン上院議員のどちらが中国に対してより攻撃的であるのか、NAFTA(北米自由貿易協定)に対してより批判的であるのかを競い合うためであった。日本が争点になることはほとんどなかった。

オバマ議員は、日本は十分な自動車を輸入していないと口先で攻撃を繰り返してきたが、それは自動車産業の中心地であるミシガン州が重要な競合選挙区であるというのが理由であった。自動車会社の経営者と労働組合は日本の自動車輸入が少ないことを根拠に円高を求め、日本からの自動車の輸入を減らすことを狙っていた。しかし、オバマ議員を含め誰一人として円相場に言及する候補者はいなかった。

重要な農業州の選挙運動でオバマ議員は日本と韓国が米国牛の輸入市場を十分に開放していないことに抗議した。しかしオバマ議員が大統領になっても、牛肉問題で日本に対して何らかの行動を取ると予想する人は皆無である。

オバマ議員やクリントン議員、マケイン議員がそれぞれ寄稿した『フォリン・アフェアーズ』誌の論文でもオバマ議員が日本に言及したのはわずか1回、クリントン議員は2回、マケイン議員は5回にすぎない。しかも、対日通商問題への言及は一つもなかった。

もう犬はほえることはないだろう。その理由は、まず日本は米国の通商や経済の面でかつてのように重要な存在ではなくなったことだ。もはや現在の日本は、1980年代や90年代初めのように脅威とは見られていないのだ。

中道路線に転じたオバマ議員

過去の対日通商摩擦は、ローレンス・サマーズ元財務長官(現ハーバード大学教授)が89年に『インターナショナル・エコノミー』誌に寄稿した記事の中で愚かにも「大多数の米国人は現在の日本はソビエト以上に米国にとって脅威であると感じている」と書いたことに端を発している。

こうした一種の対日ヒステリーは、いくつかの事柄が重なって生じた。第1に、巨額の慢性的な貿易不均衡の存在と日本の製品輸入比率が低いことで日本が“不公正な貿易相手国”であるというイメージがつくり上げられた。第2に、自動車、テレビ、半導体、繊維、鉄鋼、機械、金融といった重要産業が日本製品の輸入急増と日本企業の市場参入で深刻な影響を受けたと感じていたことだ。こうした状況を背景に産業と政治家の広範な連合が形成された。第3に、日本の競争力が高まり、今後成長が期待されるハイテク産業が危機にさらされると受け止められたことだ。

こうした問題は、現在ではまったくなくなっている。80年代末から90年代半ばにかけて日米通商摩擦が最高潮に達したとき、日本は米国の貿易赤字のほぼ半分を占めていた。しかし、ブッシュ政権が誕生してから米国の対日貿易赤字はわずか12%までに低下している。米国市場での日本製品の輸入比率は貿易戦争が行われていた頃と比べると5分の1以下のわずか8%にまで落ち込んでいる。現在、脅威を感じている唯一の主要産業は自動車産業だけである。

なぜ犬はほえないのかという第2の理由は、オバマ議員もクリントン議員も予備選挙では通商問題に厳しい態度を取ったが、それ以前に厳しい態度を取ったことはなかった。大統領本選挙が始まれば、オバマ議員は通商問題で中道的な立場に変わっていくだろうし、すでにそうした動きが見られる。

予備選挙のとき、オバマ議員はメキシコやカナダが再交渉に応じなければNAFTA協定を破棄すると脅しをかけていた。しかし、同議員が求めている変更は、すでに韓国やペルーが受け入れている程度の環境基準と労働基準を受け入れることにすぎない。また、オバマ議員は中国を為替操作国として制裁を科す法案の共同提案者だが、同法が成立しても厳しい制裁を求めている条項が発動されることはまずないだろう。

オバマ議員は現実路線を強調し始めている。米国はグローバリゼーションを受け入れなければならないが、それは労働者に犠牲を強いたり、保護主義的な反動を招いたりしてはならないと語っている。6月16日にミシガン州で行った演説の中で同議員は「グローバリゼーションの流れを逆転させることは不可能であるだけでなく、そうした試みは私たちの生活を悪化させるだろう。私は自由貿易を信じている。しかし、労働協定と環境協定のない通商協定は長期的には利益をもたらすことはないと思っている」と宣言している。

同議員が批判しているのは自動車輸入を制限している韓国だけで、日本には言及さえしていないのだ。

リチャード・カッツ

The Oriental Economist Report 編集長。ニューヨーク・タイムズ、フィナンシャル・タイムズ等にも寄稿する知日派ジャーナリスト。経済学修士(ニューヨーク大学)。当コラムへのご意見は英語でrbkatz@orientaleconomist.comまで。

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