なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか なんと「あの武将」が発案者だった?

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今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

朝鮮出兵は「明国が狙い」だった?

Q1. 「文禄・慶長の役」って何ですか?

国内統一を果たし天下人となった豊臣秀吉が、全国の大名を大量動員し、1592年から1598年にかけて2度にわたって朝鮮国(現在の韓国、北朝鮮)に攻め込んだ戦争です。

目的は「明国(現在の中国)を征服する」ことで、最初の1回目の戦いを「文禄の役」(1592~1593)、2回目の戦いを「慶長の役」(1597~1598)と呼びます。

Q2.「朝鮮征服」ではなく「明国が狙い」だった?

そうです。秀吉の目的はあくまで「明の征服」でした。

しかし、出兵に際して経由地となる朝鮮に日本への「服属」と「明への先導」を命じ、従わなければ討つと伝達したことで朝鮮側の反発が起き、「明国までの道を貸すように」という要求も拒まれ、朝鮮との戦いになりました。戦場となった朝鮮半島では、多くの被害が生じました。

Q3. どんな戦いが繰り広げられたのですか?

「文禄の役」では、序盤は戦力や装備に勝る日本軍が快進撃を続けました。朝鮮軍の抵抗もありましたが、わずか1カ月足らずで首都「漢城」(現在のソウル)を落とします。

さらに2カ月後には小西行長が「平壌」(ピョンヤン)まで進撃、加藤清正は現在の北朝鮮の最北部まで侵入して、日本側が朝鮮全域を席巻しました。

Q4. その勢いのまま明に攻め込んだのですか?

いいえ、途中で停滞しました。当時、朝鮮と深い関係にあった明からの援軍が押し寄せたからです。

朝鮮側が義兵(義勇軍)を組織し、ゲリラ戦を展開して抵抗したことや、朝鮮半島の南部は山岳地帯で、玄界灘から続く長い補給路を維持するのに苦労したことも日本側の勢いが続かなかった大きな要因でした。

Q5. では、日本は負けたのですか?

勝ち負けはつかず、漢城の日本軍が窮地に追い込まれたのを機に「和議」を結ぶこととなり、日本は撤退しました。

しかし、いったんは成立した講和は行き違いが生じたことで決裂し、再び遠征が始まります。これが2回目の「慶長の役」です。

Q6. 「慶長の役」も途中で中止されたのですよね?

はい。戦いの最中に秀吉が死去します。これを機に遠征は急きょ中止となり、戦いは終わりました。

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