山口絵理子が探し続ける「輝ける場所」とは? マザーハウスが起こしたモノづくりの奇跡

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でも、一緒に遊んでいたグループのみんなは、いろいろと問題はあったかと思うが、エネルギーにあふれている子ばかりだった。ブレークダンスが流行ったら、廊下でとても上手にダンスしていた。ナイキのエアがはやったら、誰よりも早くゲットして(教室の中でも)かっこよく履いていた。髪の毛を染めることも、ポケベルを持つことも、私たちは誰よりも早かったし、かっこよかった。

柔道というスポーツとの出会い

そんなエネルギーいっぱいだった私を変えたのは、柔道というスポーツとの出会いだ。

「投げ飛ばしてみたい!」という気持ちからスタートした部活だったが、少しずつ「試合に勝ちたい」という気持ちに変わっていった。

けんかなら自信があるのに、フェアなルールで成り立つ試合で負けるなんて、すごく悔しかった。やんちゃなグループの先輩たちと遊ぶ時間は、少しずつ柔道の時間に変わっていった。

さらに、部活動だけではだめだと思い、町の道場も見つけて通いはじめた。

深山先生という強烈な個性を持った鬼コーチは、私に柔道の厳しさを教えてくれた。先生は、「試合に出たいなら、髪を黒くしなさい」と言った。いま思うと、とても戦略的な先生だったと感じる。まんまとその手にひっかかり、私は中学2年生頃から、まじめに柔道に打ち込むようになった。

中学校3年生のとき、私は埼玉県で1番になり、やがて全国ベスト16位にまでなった。

「ベスト16なんて、かっこわるいなぁ~」

その試合では鼻を骨折してしまったので、もっとかっこわるかった。

「高校でも続ける」

たくさんの高校から、スカウトがきた。しかし、私が選んだのは女子部のない埼玉県の工業高校だった。そこの男子柔道部は埼玉県内で55年連続1位を取っていた。

はじめは入部拒否されたけれど、男子と練習したら絶対に強くなれる! という安直な考えを信じ込み、はじめての女子部員となった。「絶対に結果を出す!」という気持ちで、365日休みなく、朝から晩まで、体重80キロくらいの男子部員のみんなと、練習に明け暮れた。さらに昼休みも筋力トレーニングをして過ごした。

思い返すと、高校の制服を着たのは入学式と卒業式くらいじゃないかと思う。残りはジャージか柔道着だ。今、改めて柔道着を見ると「こんなに強い素材はないな」と思う。そんな道着も何枚も袖がちぎれ、ひざには穴があき、徐々に穴が大きくなって、練習中に長ズボンが短パンに変わったこともあった。洗濯しても落ちない血の跡も何カ所もできた。ひざの靱帯、腰、足首、肋骨など、さまざまな部位をケガした。それくらい厳しすぎる稽古だった。

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