ハルキ小説の「英語版」はこうやって生まれた 「1Q84」「ねじまき鳥クロニクル」訳者が語る

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こんな調子で話がスタートしたものだから、ディスカッションはとても活発に行われました。村上さんはユーモアのある方でしたから、私の言うことを悪く思わず、気持ちの良い話し合いができたと思います。

『ねじまき鳥クロニクル』翻訳の苦労とは

――このたび発刊した著書『村上春樹と私』では、『ねじまき鳥クロニクル』の翻訳の苦労についても披露されていますね。

この中に出てくる「間宮中尉」の話は、本当に強烈で血なまぐさく、苦しみながら訳しました。人が生きながらにして全身の生皮を剝がれるというおぞましい場面が延々と続くのです。一般の読者なら、気分が悪くなれば読み飛ばすこともできるかもしれませんが、訳者はそうはいきません。目をつぶると訳せなくなりますから。一度、村上さんとその話をしようと思ったのですが、話したがりませんでした。あまりにも残忍で血なまぐさく、触れたくなかったようです。自分で書いた作品なのに。

私はこれまで長編小説の翻訳もしてきました。しかし多くは明治期の作家です。“生きている作家”の長編小説としては、『ねじまき鳥クロニクル』が初めてでした。翻訳の過程でいろいろと聞きたいことが出てきたので、原稿が出来上がってから、30ページにも及ぶ質問リストと共に村上さんのオフィスを訪れました。

あれは、彼にとっても私にとっても拷問のような1日でした。朝から夜の11時まで、私はささいな質問をし続けました。たとえば、こんな感じです。

「『ねじまき鳥クロニクル』では、水のイメージが大事です。第一部第三章で主人公のネクタイが『水玉』と形容されていますが、普通に使われる“polka-dot”より、“water-drop pattern”のほうが水のイメージを強調できるので、そう訳しても良いですか?」と。

しかし村上さんは普通の「polka-dot」を使ったほうがいいと(笑)。こういう細かい点を一つひとつ、確認していったのです。最後には2人とも頭がふらふらになりました。今でも彼に悪いことをしたと後悔しています。

――日本語や日本文学に関心を持ったのは何がきっかけだったのでしょう。

シカゴ大学の2年生の終わり、翌年から哲学を専攻しようと考えていた頃です。何か西洋文学とは違う科目を勉強しようと思って履修したのが、「日本文学入門」でした。たまたま空きがあったのです。もし中国とかアラブの歴史の科目に空きがあったら、そちらを履修していたかもしれません。もっとも、それより前に禅に関する本を読んで神秘的な魅力を感じていましたから、そうした経験も履修の後押しになったのではないかと今では思います。

授業で読んだのは『伊勢物語』や『源氏物語』でした。すべて英訳の作品でしたが、西洋では想像できない世界観で、「この世界をもっと知りたい」と思いました。そして、この本が書かれた言語を学びたいと考えるようになりました。授業を受け持っていたエドウィン・マクレラン教授の教え方が良かったのでしょう。必ず日本語の原書を携えて教室に現れ、「この部分が訳に出ていない」とか、「原文ではこう表現されています」といったように、原文について説明してくれました。ほかの学生はどうか知りませんが、私は日本文学を原文で読めたらどんなに楽しいだろうと思い、日本語の教科書を買って勉強を始めました。

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