SMAPと欽ちゃん、切っても切れない深い関係 「素人の時代」を切り拓き、発展させた

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それは、ヒット曲が生まれる仕組みが根本的に変わったことを意味していた。それまでは、いま挙げたような歌番組に出演することが、歌手にとって自分たちの知名度を上げ、新曲をプロモーションするための最も有力な手段だった。テレビの歌番組で新曲を披露し、それを聞いて気に入った視聴者がレコード店で購入することでヒットにつながる。そういう歌番組を中心としたヒットの仕組みができあがっていた。

光GENJIは、まだその仕組みが保たれていた時代にぎりぎり間に合った。言い換えれば、アイドルは「歌って踊る」ことに専念していればよかった。しかしSMAPは、それではやっていけなくなったのである。

バラエティに本格挑戦

そんな苦境に陥った彼らがグループとして取った道は、バラエティに本格挑戦することだった。この頃、ジャニーズ事務所社長であるジャニー喜多川が、SMAPを「平成のドリフターズにしたい」と語ったとされる。「8時だョ!全員集合」(TBSテレビ)で一時代を築いたザ・ドリフターズは、ミュージシャンから出発して成功した。それを歌の世界からお笑いの世界に入っていくSMAPのモデルケースとして考えたのだろう。

それは裏を返せば、SMAPはお笑いに関して素人だったということである。

アイドルがコントを演じる番組は、例えば新御三家(野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹)が出演した「カックラキン大放送!!」(日本テレビ)など70年代からあった。同じ時期に活躍したジャニーズ事務所の先輩、フォーリーブスもテレビでコントを披露していた。その流れは80年代のたのきんトリオ(田原俊彦、近藤真彦、野村義男)にも引き継がれた。

ただし、それは彼らにとってあくまで余技であった。もちろんなかには達者にコントを演じるアイドルもいた。しかし、メインは「歌って踊る」ことであり、お笑い芸人と同じフィールドに立ってのことではなかった。

それに対し、SMAPはバラエティの分野に本格的に進出したという点で、それまでのアイドルの歴史にはなかったことをやろうとした。先駆的には、先述したように萩本欽一のプロデュースしたアイドルがいた。

しかし、その場合は、プロの芸人である萩本自身がツッコミ役やいじり役として常にアイドルたちの傍にいて、笑いについての最終的な責任を引き受けていた。SMAPは、そうしたプロの助けも得ず、自分たちだけでお笑いに臨んだ。それはまさに挑戦であった。

1992年「夢がMORI MORI」(フジテレビ)のコント「音松くん」で注目されたSMAPは、その後深夜番組「SMAPのがんばりましょう」(同)などで“バラエティ修業”を積む。そして96年、ついにプライムタイムで冠バラエティ番組「SMAP×SMAP」(関西テレビ・フジテレビ、以下「スマスマ」と表記する)がスタートする。

やはり新鮮だったのは、彼らがさまざまなキャラクターに扮したコントである。役柄のためには着ぐるみや奇妙なメイクもいとわないという点も、それまでのアイドルの常識からすれば驚きだったが、なによりも全体的にクオリティが高く、各メンバーに当たり役が生まれたのも大きかった。コントの種類も、中居正広の「マー坊」のようなオリジナルものもあれば、木村拓哉の「古畑拓三郎」のようなパロディものもあり、幅が広かった。数年かけた“バラエティ修業”の経験が実を結んだと言っていい。

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