SMAPと欽ちゃん、切っても切れない深い関係 「素人の時代」を切り拓き、発展させた

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また、木村拓哉と草彅剛は、88年放送の「欽きらリン530!!」(日本テレビ)のために作られたアイドルグループ「CHA―CHA」のメンバーに一度は決まっていた。結局ふたりはCHA―CHAのメンバーとして正式デビューすることはなかったのだが、オーディション時などで彼らに感じたスター性について、萩本はいろいろな機会に語っている。

ただ、SMAPと萩本の関係は、こうした仕事上のつながりだけではない。むしろここで強調したいのは、テレビ史における両者の関係である。というのも、萩本はテレビに本格的な「素人の時代」をもたらした張本人であったからである。

「欽ドン!」「欽ちゃんのどこまでやるの!?」など、萩本が企画した番組は軒並み高視聴率を挙げた(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

1960年代、坂上二郎とのコンビ、コント55号で一世を風靡した萩本は、70年代に入ると、ひとりでの仕事が増えていった。そのなかで、自分の番組に登場する素人の何気ない勘違いや意図しない失敗が、プロの芸人の熟練した芸を上回る笑いを引き起こすことに気づく。そして素人(あるいはお笑いに関して素人の芸能人)を前面に出した番組作りを始めるのである。「欽ドン!」シリーズ(フジテレビ)や「欽ちゃんのどこまでやるの!?」(テレビ朝日)など、萩本が企画したそのような番組は軒並み高視聴率を挙げた。

さらに萩本は、それらの番組に出演する素人(あるいは歌手ではない芸能人)によるアイドルグループとして、1980年代に「イモ欽トリオ」や「わらべ」などをプロデュースし、それも成功させた。先述のCHA―CHAもそうした路線から生まれたグループということができる。

「笑いもできるアイドルグループ」の誕生

これらのグループは、当時としては前例のなかった「笑いもできるアイドルグループ」であった。特にCHA―CHAは歌と笑いだけでなく、ダンスの要素も加わる(木村と草彅以外のジャニーズ事務所所属のメンバーが入っていた)。つまり、後のSMAPを先取りするようなアイドルグループを、萩本はすでにプロデュースしていた。そしてそれは、テレビの特性を踏まえた素人を打ち出す路線の延長線上にあったのである。

SMAPの結成は1988年。デビューはそれから3年後の1991年である。

ただ、デビュー曲は、本人たちや周囲が期待したほどのヒットにはならなかった。すぐ上の先輩である光GENJIがデビューから爆発的な人気を誇ったのと比較される立場になってしまったという不運な巡り合わせもあるだろう。

しかし最も大きかったのは、ちょうどSMAPがデビューしたのと同じ時期に各テレビ局の看板歌番組が相次いで終了したことだった。「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)、「ザ・ベストテン」(TBSテレビ)、「歌のトップテン」(日本テレビ)といったゴールデンタイムの歌番組が90年前後に足並みをそろえるように幕を閉じたのである。

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