ノリタケカンパニーリミテド

世界を白い輝きで満たした、
ノリタケ創業者の「フロンティア・スピリッツ」
日本初のディナーセット、「セダン」とは?

拡大
縮小

夢を背負い、
弟がニューヨークへ

ニューヨークで立ち上げた店舗「モリムラブラザーズ」(明治17~23年頃撮影)

その人物とは、市左衛門の15歳年下の異母弟、森村豊(とよ)。

他家へ奉公に出ていた豊が、兄・市左衛門と海外貿易を志す道へと突き進む転機になったのが、1866年(慶応2年)、13歳の時。当時、幕府が鎖国政策を解き、学問や貿易のための海外渡航を許可したことを知った市左衛門は、豊をすぐさまに呼び寄せ、貿易への夢を打ち明ける。

その情熱をひたむきに語る兄に、豊は深い感銘を受ける。「兄と同じ夢を」と共鳴した豊は、福沢諭吉の弟子の書生になり、貿易に必要な英語の勉強に打ち込んだ。そして、慶応義塾に入塾する。

豊は1874年(明治7年)に同塾を卒業し、その後、同塾で助教を務めていた。兄・市左衛門はその前年、にぎわい始めた銀座に洋服裁縫店「モリムラ・テーラー」を開業。経営の一方で、外国人の好みそうな雑貨を携えて横浜へ出向き、取引を続けていた。

チャンスが舞い込んだのは、福沢諭吉からの情報だった。ニューヨークから帰国した佐藤百太郎という人物が、日本の青年有志を募って再び渡米するという話を聞き、市左衛門は大きな決断をする。

画像を拡大
渡米前の豊(右)、市左衛門(左)、父(中央)。1876年(明治9年)撮影

それまで蓄えた資金のすべてを投げ打ち、1876年(明治9年)3月、渡航費用を含めた3000円を資本金とする「森村組」をモリムラテーラーの2階に創業。若い弟の豊に夢を託し、いよいよアメリカに送り出したのである。海外貿易を志してから17年目、市左衛門37歳、豊22歳のときだった。

ニューヨークでの生活を始めた豊は、現地の学校で語学と商法を学んだ後、渡航の同年末にはニューヨーク6番街に小さな店舗を借り受け、佐藤百太郎らと共同経営の商売をスタート。市左衛門は、豊の店で販売するための商品を仕入れるため、東京から横浜や名古屋、京都、大阪などを奔走。骨董品や和風雑貨類、陶磁器などを次々に輸出した。現地では折からの日本趣味(ジャポニズム)ブームの人気もあって、大勢の客が詰めかけ、大盛況となった。

当時のニューヨークに日本人はまだ20~30人足らずしかおらず、仕事といえば掃除人夫とか皿洗いが当たり前だった時代、体格も小柄だった豊が大柄なアメリカ人を相手にまったく白紙の状態から顧客開拓を進めていった努力は並大抵の事ではなかったと想像できる。

そんな中「微力でも単独経営しか将来の事業成功はあり得ない」と1878年(明治11年)に独立。店名を「モリムラブラザーズ」に変え、店の経営に全力で取り組む。

そのころ、日本では明治政府の輸出奨励策により、海外貿易を行う会社は政府からの援助を受けていたが、市左衛門は固辞。「役人に指図されず、利息のある資金で働く気概を持つべし」と、独立自営の経営方針を貫いていた。

画像を拡大
明治20年代の輸出製品

兄弟の努力が実を結び、2年後、1880年(明治13年)のモリムラブラザーズの売上高は年間10万ドルほどに。この年、初めて渡米した市左衛門は、現地の市場を直に見て陶磁器製品の有望性を確信し、その後は陶磁器を主力商品とすることとになった。また、小売りから卸売りに事業を転換、さらには見本品で注文を取りその後客先へ直送するインポートオーダーも開始。年々規模を拡大し当時としては日本屈指の商社となっていった。それは、森村兄弟の海外貿易にかけた強い決意と誠実を第一とする経営姿勢が、異国の地でのお客の信用をつかんでいった証しともいえる。

だが、市左衛門と豊は二人で訪れた、パリ万博で衝撃を受ける。

次ページいったい何が起きたのか
資料請求