テレサ・テンという、アジア最強コンテンツ 死後も10億人を魅了する魔力

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特別展の中で唯一の不満があったとすれば、テレサ・テンの人生の大きなターニングポイントとなった、天安門事件への抗議活動について触れていなかったことである。特別展がテレサ・テンの死後に家族らによって設立された財団「鄧麗君文教基金会」の全面協力の下で実現したこととも関係しているのかもしれない。

1980年代後半、歌手として名声も財産も築いたテレサ・テンにとって、「祖国」とも言うべき中国大陸への進出は人生最後の目標でもあった。長年の交渉の結果、1990年に天安門広場で200万人を集めた空前のコンサートを開く予定となっていた。ところがその天安門広場で群衆が戦車にひき殺され、テレサ・テンが抗議に立ち上がったため、中国進出は夢と消えたのだった。

そして歌手業からしだいに熱意を失っていたテレサ・テンは、自分がスターであることも知らないカメラマン志望のフランス人と一緒に暮らし、アルコールや睡眠薬におぼれ、最後はぜんそくの発作であっさりこの世を去った。

本来は聡明であった彼女には似つかわしくない行動ともいえたが、彼女の中にある、自分でも抑制しきれないエネルギーがもたらした破滅的な行動で、彼女自身が招いた悲劇だということもできる。しかし、人生の絶頂期半ばでの突然の退場によって、逆に彼女は人々の記憶の中で普通のスターから特別なスターに生まれ変わったのである。

テレサ・テンは、「アジア共有の文化遺産」

エンターテインメントがクロスボーダー化した今の時代、日本の歌がアジアで歌われ、アジアの歌が日本で歌われることは普通になっている。しかし、テレサ・テンはインターネットもユーチューブもない30年前に、多国籍アーティストの地位を確立した。

そして、テレサ・テンという最強のコンテンツは今も色あせていない。対立や矛盾に満ちたアジアの中で、ほとんど唯一と言っていいほど、各国の人間たちが安心しながら一致して思いを寄せられる「アジア共有の文化遺産」だといえる。しかも、日本、中国、台湾、香港、東南アジアにおいて、それぞれ微妙な異なった形で足跡を残しているテレサ・テンについて各国人が語り合えば、立派な文化交流になるだろう。

本来、ソフトパワーとは海外に対して自国の文化や体制が好意的な影響を与えることを指しているのだが、テレサ・テンは誰にとってもソフトパワーの送り手となり、受け手にもなり得るという意味で、「究極のソフトパワー」だと言えなくもない。そして、テレサ・テンに対する強烈な「記憶」が共有され、次世代にも伝え続けられていくかぎり、今後10年、20年どころか、半世紀経ってもその輝きを失わないのではないだろうか。

野嶋 剛 ジャーナリスト

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のじま つよし / Tsuyoshi Nojima

1968年生まれ。上智大学新聞学科卒業後、朝日新聞社入社。シンガポール支局長、政治部、台北支局長などを経験し、2016年4月からフリーに。仕事や留学で暮らした中国、香港、台湾、東南アジアを含めた「大中華圏」(グレーターチャイナ)を自由自在に動き回り、書くことをライフワークにしている。著書に『ふたつの故宮博物院』(新潮社)、『銀輪の巨人 GIANT』(東洋経済新報社)、『ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち』(講談社)、『台湾とは何か』(ちくま書房)、『タイワニーズ  故郷喪失者の物語』(小学館)など。2019年4月から大東文化大学特任教授(メディア論)。

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