江戸幕府が「鎖国」していたという大きなウソ 歴史研究よりも一歩早い「東大の日本史」

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以上の内容をまとめれば解答になるが、「東大の日本史」の解答字数は、600字近くの大論述を課す世界史と比べると、かなり短い。実際に書いてみると、余計な部分を削ぎ落とさないと収まらない。それが「東大の日本史」の難しさでもあり、腕の見せどころでもある。

海外情報をスピーディーに収集

そもそも、「鎖国」を行っていた時代に、「鎖国」という言葉自体がなかった。「鎖国」は後の世の人が作った言葉なのである。だから「鎖国令」などというものは存在しない。

当時の幕府は、「鎖国」という感覚はなく、「キリスト教の布教禁止」といった方針のもとに日本人の渡航を禁じ、取引国を段階的に制限していった。そして、徐々にすべての貿易を幕府の統制下に置いていったというのが実のところなのである。

幕府は外交を絶って孤立しようとしたのではなかった。いわば外側からバリアを張って国内の支配体制(幕藩体制)の安定を図ったのである。そこにあったのは、幕府のしたたかな外交戦略だった。

さらに、外交を一手に握った幕府が得ようとしたものは、物品だけではなかった。「海外情報」の収集にも重きを置いていたのである。このことを裏付けるようなエピソードがある。

1673年(寛文13年)、イギリス船が長崎の出島に来航して貿易の再開を求めてきた。しかし、このとき幕府は、国王チャールズ2世がカトリック国の王女カタリナ(キャサリン)と結婚したことを理由に、要求を拒否した。つまり、日本はキリスト教の布教を禁止しているため、カトリックの王女を持つ国とは国交できない、ということである。

国王チャールズ2世がカトリック国の王女カタリナ(キャサリン)の結婚は、1662年のこと。わずか10年ほど前のことだ。これだけでない。イギリスで起こった清教徒革命、フランスのフランス革命、ナポレオン戦争などの世界情勢も、幕府は1~2年のうちに把握していたとされている。当然ながら、テレビもインターネットもなかったこの時代に、だ。

実は、これら海外の動向を知らせていたのは、「唐船風説書」や「オランダ風説書」だった。特に、先のイギリス国王の結婚の情報もととなった「オランダ風説書」は、長崎出島に商館を置いていたオランダ(正確には東インド会社)の新任の商館長(カピタン)が来日した際に将軍に提出していたもので、幕府の要人のみが閲覧を許されるトップ・シークレットであった。

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