“サロン”とは、本来“部屋”を意味するフランス語で、その部屋の主人が当時の芸術家や作家、学者などを招いて知的な会話を楽しんだことがその成り立ち。そして、ショパンやリストが活躍していた19世紀前半のパリこそは、クラシックの歴史の中でもサロンが最も光り輝いていた時代だ。
公開の場でのコンサートをほとんど行わなかったパリ時代のショパンは、自宅に友人を招いてのコンサートや貴族や芸術家が集うサロンでの演奏を好み、その場で多くの友人やパトロンと知り合っている。ショパンの人生に大きな影響を与えた愛人ジョルジュ・サンドと出会ったのも、リストの愛人であったマリー・ダグー夫人のサロンであるホームパーティの席。社交場であるサロンは人々の出会いの場でもあったのだ。
そう考えると、なるほど東急プラザ銀座の「KIRIKO LOUNGE」で、コンサート前後に盛んに行われていた挨拶や名刺交換の風景は、まさにサロンの持つ機能と魅力の1つなのだろうと納得できる。
伝えたい「大田黒サロン」のすばらしさ
今から100年ほど前の日本にもすばらしいサロンが存在していたことは意外に知られていない。「大田黒サロン」と呼ばれて親しまれたこのサロンは、日本クラシック界の草分けとして活躍した評論家、大田黒元雄(1893-1979)が主催していたもの。それを知るきっかけとなったのが、五反田にある「G-Callサロン」でのコンサートだった。ピアニストの高橋悠治と青柳いづみこの提唱によって行われたこのコンサートは、2015年12月18日からさかのぼること100年前の同日に開催された第1回コンサートにちなんだ「大田黒サロン」の再現だ。ここで少し大田黒元雄と彼のサロンについて触れておきたい。
明治26年に東京の裕福な家庭に生まれた大田黒元雄は、幼い頃から音楽に親しみ、1912年から2年間に渡ってロンドンに留学。経済学を学びつつ、ロンドンのコンサートや劇場に通いながらヨーロッパの芸術文化に親しんでいる。そこで得た豊かな教養を抱えて帰国した大田黒は、日本ではまだよく知られていなかったクラシックの作曲家とその作品を日本人に紹介することに尽力する。
その大田黒が当時住んでいた大森山王(現大田区)の自宅で開催した「大田黒サロン」では、ドビュッシーやスクリャービンなど、当時時代の最先端にあった作曲家たちの作品を友人知人や自らのピアノ演奏によって紹介。1918年には、ロシアからアメリカへの亡命途中に日本に立ち寄って数カ月を過ごした作曲家プロコフィエフを招いて親しく交流を果たしている。
そのあたりの詳細については「プロコフィエフの日本滞在日記」にも描かれているので、興味のある方はぜひお読みいただきたい。若きプロコフィエフが見た100年前の日本の風景と彼の突飛な感想は、それ自体が貴重な文化史だとも言えそうだ。
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