上場廃止したチムニーが再上場した真意 和泉社長に聞くMBOの功罪

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外食業界ではすかいらーくやレックス・ホールディングスなどファンド傘下に入ってもなかなか経営改革のできない企業が多い。コンサルタントが1か月に1回来て話をしながら経営改革をやるのではなく、カーライルが筆頭株主となり一緒に経営改革をやったから今のチムニーがある。他社ではこういった取り組みができていないから、うまくいっていないだろうし、当社も米久(の傘下にあった)時代にはこういったことはできなかった。

――そもそもなぜMBOしたのか。

チムニーはずっと親会社の戦略に翻弄されてきた。1984年にジャスコ(現イオングループ)の子会社としてスタート。が、ショッピングセンターに注力するジャスコに居酒屋はいらないからと、97年に食肉加工大手の米久に売却された。

米久は当時、地ビールの販売に乗り出したところで同社のソーセージとビールを売るのがわれわれの仕事だった。その後、米久自身もキリンビールや三菱商事に売られ、チムニーの立ち位置も、米久のソーセージを売るため、キリンビールを売るためとめまぐるしく変わった。

07年に三菱商事が米久の筆頭株主になり、米久が伊藤ハムとの提携を進めて食肉事業に集中するようになると、われわれのような居酒屋は必要なくなってきた。独立企業として自分たちがどうやっていくかを考えてMBOを選んだ。

カーライルの最初のイメージは“ハゲタカ”

――09年当時、米久グループの売上高のわずか2割強程度しかなかったチムニーが、営業利益では半分以上を稼ぎだしていた。米久はチムニー売却後も当時の利益水準を超えていない。筆頭株主からの独立は三菱商事の方針だったのか。

そのとおり。チムニーの利益が米久の利益のほとんどを占めていた。「利益はきっちり出しながらも、親会社の政策に従え」というダブルスタンダードだった。われわれは利益を出すマシーンではない。チムニーとしてもっと企業価値を上げるには川上への進出、新たなメニュー開発といったことが必要だったが、親会社に話が通じない。チャレンジ精神と相反していた。そこでカーライルとの話し合いを持った。

――なぜカーライルを選んだのか。

今だからカーライルのことはよくわかるが、当時はサッポロに出資していたスティール・パートナーズのような“ハゲタカファンド”のイメージがあった。それでもMBOしなければやっていけないという強い危機感をわれわれは持っていた。

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