語り継がれる「真田丸」戦術のここが凄い! 家康を追い詰めた信繁の「生き様」に学ぶ

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信繁は周辺の村々に分散させていた旧臣150人ほどを率いて大坂城に入ると、軍議で父・昌幸から伝授された積極的な野戦策を主張した。それは主力が山崎で徳川軍を待ち構え、信繁が別働隊を率いて美濃で敵を迎え撃って、足止めさせて退却する。そして瀬田と宇治の大橋を破壊し、京都を焼き払って伏見城を落とす。この緒戦の勝利を喧伝すれば西国の豊臣恩顧の大名たちも味方になるというものである。

これには長宗我部盛親、毛利勝永、後藤基次らの歴戦の武将も賛同したが、豊臣家譜代の大野治長らは、信之の真田隊が徳川方に加わっているために猜疑し、父の推測どおりに受け入れられなかった。

信繁は救援の見込みのない籠城に不満を抱いていたが、積極的な籠城を決行することにし、城南の総堀の外に突出させた出城の「真田丸」を築く許可を得た。その場所は当時、鉄壁を誇った大坂城の唯一の弱点であると、信繁が見抜いたからである。

信繁の名を後世にまで知らしめた「真田丸」での奮戦

真田丸は、武田流築城術の丸馬出(まるうまだし)という半円形のもので、南北221メートル、東西142メートルの規模である。外の三方に空堀、中央に水堀を構えて逆茂木を植えた。巡らせた土塀の要所に櫓(やぐら)を建て、二段に設けた犬走りに狭間を開け、鉄砲の集中活用を図るものだった。

慶長19年(1614)11月から始まった大坂冬の陣では、徳川軍の前田利常、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎らの隊が真田丸に殺到した。真田勢は真田丸に籠もって、周囲の銃眼から打ち下ろす形で徳川方に一斉射撃を行い、大打撃を与え撃退した。この戦術はもちろん父・昌幸譲りであることは間違いないであろう。

この様子を徳川方の島津家久は、「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)。昔からの物語にもないことと評判である」としている。

攻めあぐねた家康は和議を持ちかけた。大坂城の浪人の多くは和議に反対だったが、信繁は大坂城内に疑わしい者がおり、家康は高齢でもあり時を待つのも一策とした。

次ページ砲撃は和議締結まで打ち込まれ続けた
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