ノーベル平和賞のEU、欧州統合の歴史【1】

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(57年、ローマ条約調印後に旗を掲げて祝う人々、European Union,2012)

ドゴールは米英軍の支援を受け、ドイツ軍の占領からパリを解放。シャンゼリゼ大通りを行進して歓呼の声に迎えられた。直ちに臨時政府の首班に選ばれたが、共産党をはじめとする議会勢力の混乱に嫌気が差し、あっさりと政権を放り出して田舎に引きこもった。

超級のナショナリストであるドゴールを「欧州統合の父」と呼ぶわけにはいかない。しかし結果として、ドゴールが欧州統合に果たした役割は極めて大きい。当時の欧州は、米国のマーシャル・プランによる財政援助を受けて戦後復興に取りかかっていたが、西ドイツが「奇跡の復興」と呼ばれた経済成長を実現しつつあったのに対し、フランスは二つの植民地の独立戦争にてこずり、苦しい経済状況にあった。

ベトナム戦争でフランスはホー・チミンの解放ゲリラに敗北を喫し、54年のジュネーブ協定で撤退。後をアメリカに引き継いだ。もう一つの植民地アルジェリアでも、武装解放勢力との泥沼の抗争が続いており、本土の経済復興に大きな足かせとなっていた。

58年のローマ条約発効から間もなく、在アルジェリアのフランス人極右入植者と現地派遣軍は、フランス本国政府の混乱に業を煮やし、反乱を起こした。本国への進撃も辞さないという威嚇のもとに、「愛国者」ドゴールの政権復帰を要求。議会の要請を受けて、ドゴールは12年ぶりにパリに戻り、再び救国内閣を組織した。ところが、ここでドゴールは世界をあっと驚かせる二つの決断を下す。

反乱軍はドゴールが、断固たる姿勢でアルジェリア人の反仏解放勢力弾圧に乗り出すことを期待していたが、ドゴールは期待とはまったく異なる方向へ動いた。再三、テロや暗殺の危険にさらされながら、反乱軍の鎮圧に動き、首謀者を処罰したのだ。その間、ドゴールは大統領に7年間の任期と強力な権限を付与する第5共和国憲法をつくり、国民投票で圧倒的な支持を獲得。58年12月、その憲法下で第5共和国の初代大統領に選ばれた。62年には強権下でアルジェリアの完全な独立を承認。ドゴールは、近代国家にとって植民地経営が無用な重荷になる時代が来たことを認識していたのである。

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