フランスワインの定着 その5:大衆化=販路の多様化《ワイン片手に経営論》第9回

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■中世フランスの農業の進化と貨幣経済

 当時の農業は、どのような発達をしていたのでしょうか。『Cambridge Concise Histories』(ロジャー・プライス著、訳書は『フランスの歴史』(創土社))によると、畑に蒔く種子の量と収穫量の比率は9世紀から13世紀の間に、2.5倍から4倍に増加しているようです。と言っても、毎年の収穫量を個別に見ていくとそれなりに不安定ではあったようですが…。

 そして、12世紀後半には大農場や北部フランスでは、牛と人力による農業から馬と鉄製の鍬、鋤、鎌、新型農機具、荷車、馬具、樽が使われるようになり、土地を早く耕したり、収穫したりすることが可能になり、生産性が向上しました。

 農業が発達すると、自分たちで消費できる以上に穀物が収穫できるようになり、税金としての徴収分と自分たちの消費分を差し引いて、余った穀物を交換する貨幣経済が発達してきます。そして、その対極側には、自分のサービスを提供して貨幣を得て、それで食糧を買う人たちが生まれます。こうして、自ら農業に携わらなくても、何らかのサービスによって生計を立てられるようになりますので、都市生活者が増え、都市文明が発達するのです。狩猟生活をしている場合は、収穫量が大抵ぎりぎりで不安定ですので、なかなか貨幣経済は発達しません。

 農民も貨幣を持つようになると、農業技術の発達と共に、貨幣を農機具の購入に使ったり、領主、教会、国王は、農民に対して貢租や税を金納したりするように要求するようになりました。こうして、封建社会の農民は自然と貨幣経済に組み込まれていきました。

 結局、農耕社会が広がっていくとともに、徐々にモノやサービスと貨幣を交換する経済が発達し、引いては都市が拡大、すると益々都市の食糧需要が増加し、近郊の農業が発達するという循環が起きていたと考えられます。そして、都市の中で発達して行ったのが、キャバレーであったり、レストランであったりするわけです。こうして、中世のワインは、大衆消費への販路が拓かれ、一気に市場が爆発的な勢いで広がっていくことになったと考えられます。
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 ワインが、国王や貴族、または教会の司教だけの飲み物だけでなく、大衆に広がるためには、農耕社会の発達とモノの流動性を高める貨幣経済の発達がポイントであったということです。

 そして、この貨幣経済は人々の思考を変えて行きます。その思考とは、「合理主義」です。モノとモノを貨幣を通じて交換するには、合理的思考が欠かせません。Aというモノと、Bというモノが同じ値段であるとすると、それらが同じ値段であるという理屈がないと人々は納得しません。当然、値段を計算するための算術思考も発達します。そして、貨幣は、「価値」という抽象物を「貨幣」という実体を通して見える化しているものですから、貨幣経済は、人々に極めて論理的な抽象思考を要請するのです。中世のルネッサンスの時代に、初めて先物取引やオプション取引といった金融工学が生まれたのも偶然ではなかったのだと思います。

 貨幣経済は都市の発達を後押しします。都市は、ある意味、何もないところに築かれるのですから、富の移動は都市建設の重要な要件です。付加価値や富を産むのは、土地以外には、モノまたはサービスがあります。土地とモノ・サービスの違いは、動かせるか動かせないか。そして、モノとサービスの決定的違いは、蓄積できるかどうかです。モノは蓄積することができますが、サービスは時間の商売であることがその本質ですから、本来的には蓄積することはできません。となると、富を移動させ蓄積できるのはモノしかありません。実際には、モノそのものを移動させると大変ですから、貨幣に交換して移動するという手段がとられます。結果、農地から得られた富の源泉である食糧が貨幣によって交換(抽象化)されることによって、富の移動が容易化(流動化)したのです。そして、富が封土から都市へと移動し、パリのような大都市が築かれていったのでした。

 さらに、貨幣経済が中世以降発達し、間もなく17世紀から19世紀にかけて、科学技術が大きく花開くことになります。物理学や解析学の基本をことごとく解明したアイザック・ニュートン(1642-1727)も17世紀の科学者です。こうした17世紀から18世紀の科学の発展は、中世以降に本格化してきた貨幣経済によって鍛えられた抽象的合理的思考の発達の結果なのかもしれません。ということで、次回と次々回の2回にわたっては、「科学がどう発展したか」、「ワインの神秘が科学によってどう解き明かされたか」をお話ししてみたいと思います。
*参考文献 
ロジェ・ディオン、『フランスワイン文化史全書 ブドウ畑とワインの歴史』、国書刊行会
《プロフィール》
前田琢磨(まえだ・たくま)
慶應義塾大学理工学部物理学科卒業。横河電機株式会社にてエンジニアリング業務に従事。カーネギーメロン大学産業経営大学院(MBA)修了後、アーサー・ディ・リトル・ジャパン株式会社入社。現在、プリンシパルとして経営戦略、技術戦略、知財戦略に関するコンサルティングを実施。翻訳書に『経営と技術 テクノロジーを活かす経営が企業の明暗を分ける』(英治出版)。日本ソムリエ協会認定ワインエキスパート。
◆この記事は、「GLOBIS.JP」に2009年5月28日に掲載された記事を、東洋経済オンラインの読者向けに再構成したものです。
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