山田太一氏が語る脚本、映画、そして仕事術

「憶病だから仕事で掛け持ちはできない」

山田太一(やまだ たいち)/1934年東京出身。早稲田大学卒業後に映画会社の松竹大船撮影所に入社。木下恵介監督に師事する。1965年に同社を退社後、テレビドラマの脚本家となり、「藍より青く」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」シリーズ、など数々の名作を手がけた。一方、作家としても数々の作品を発表。第32回放送文化賞、第2回向田邦子賞、第33回菊池寛賞、第1回山本周五郎など受賞歴も多数

――当時はどんな作品をご覧になったのですか。

戦後だと黒澤明さんの『野良犬』とか『酔いどれ天使』とか。あの辺の作品は1回しか見ていないのに、かなり細かいところまで覚えていますね。テレビが中心になる前は、映画しかなかったから。集中度が違ったのかもしれません。

――その一方で巨匠の作品も数多く作られていた時期だと思いますが。

僕が松竹にいた頃の巨匠は、小津安二郎さんや木下恵介さんでした。そこには本当にいい職人たちが集まっていました。いい脚本で悠々と撮っていた時代ですね。

――小津監督の現場に助監督としてついたことは?

それはないです。小津さんのところは助監督が4人、きちんと決まっていましたから。だから、誰かが監督になるか誰かが死ぬか、といったことがない限り、新人が入る余地がなかった。ただし見に行くことはできたので、後ろからソーッとのぞきに行ったことがあります。ちょうどその時、大映から山本富士子さんが特別出演で来られていて、本物の山本富士子さんを見たいと思ってね。

「そのコップを鎌倉寄りに」と話す小津監督の撮影現場

だいたい撮影現場というものは、職人たちが怒鳴っていて、ワイワイうるさいものなんですが、小津さんの現場はシーンとしていてすごく静かだった。なんとかカメラの近くまで歩こうとしたんですけれど、運動靴で歩く音がみんなに聞こえてしまうんじゃないかというくらいにシーンとしていました。そこでは小津さんと、カメラマンの厚田雄春さんが2人で並んでカメラをのぞいていて。「そのコップを鎌倉寄りに」とかなんとか言っているんですね。すごい組だなと思いましたよ。

――松竹作品には、いわゆる大船調と呼ばれるホームドラマ的な伝統がありますが、山田さんはそこからの影響はあったのでしょうか。

助監督というものは、そういう伝統に対する反発があるもので。だから僕は小津さんのような作品を作ろうと思わなかったし、そもそもできるものでもない。小津さんのスタイルというものは、小津さんが長い年月をかけて形成してきたものですから。まねをしてみても滑稽なだけですよ。とは言いながらも、それでもある種の影響は受けているかもしれません。やはり先に誰かがいなければ、突然自分だけでスタイルが生み出されるわけでもないですから。それこそ反発なり、模倣なりと、いろいろな形で影響は受けていると思います。

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