(第2回)美空ひばりから、アイドルの時代へ

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(第2回)美空ひばりから、アイドルの時代へ

 

高澤秀次


 あらためて、阿久悠とは"誰"なのか。簡単にそのプロフィールに触れておこう。

 1937年(昭和12年)兵庫県淡路島生まれの彼は、8歳で敗戦を経験している。この世代を俗に焼け跡・闇市世代と言う。
 敗戦のショックで、昨日まで勇ましいことを口走っていた大人たちが意気消沈するなか、焼け跡から真っ先にはい上がったのは、子供たちだった。戦争の結果みなし児となり、ホームレス化した"浮浪児"たちも、たくましくそれぞれの戦後を生き始めたのである。
 後に阿久悠は、昭和21年から23年までの3年間を、「子供が大人より偉い時代」だったと語っている(『瀬戸内少年野球団』文庫版あとがき)。飢えと死の恐怖に直面しながら、生きる活力と、新しいものに出会う興奮が、ユートピア的な新世界への扉を子供たちに開いてくれたからだ。

 ところで、この焼け跡・闇市世代のチャンピオンは、何と言っても美空ひばりであった。
 阿久悠は、歌謡界の女王ひばりと同年生まれである。彼自身がかつて指摘したとおり、美空ひばりは敗戦直後に、『悲しき口笛』、『東京キッド』など同時代を象徴するみなし児の歌を歌い、みなし児の役を演ずることで、国民的なスターとなった。
 日本の敗戦から5年後、映画化された『東京キッド』(松竹)で、靴磨きの少女を演じたひばりは、何があってもめげずに歌を口ずさむ、寝ぐらのないみなし児だった。歌い演じる少女歌手は、焼け跡からはい上がった日本人にとっての希望の星であり、象徴的スターだったのだ。
 やがて彼女は、昭和・戦後歌謡の王道を極めることになる。

 ある時はどぎついほど過激に、ある時は意表を突く作詞術で一時代を築いた阿久悠は、自分は美空ひばりで完成した流行歌の本道とは、違う道を歩みたかったと述べている。だが、その初心に忠実であることは、自ずから昭和歌謡史への不敵な挑戦を意味していた。
 演歌でもなく、西洋風のポップスでもない戦後日本歌謡--それが、作詞家・阿久悠が開拓した新ジャンルだった。そこには、美空ひばりと同世代でありながら、歌手ひばりより約20年遅れで作詞家となった阿久悠に与えられた、時代条件も関与していた。

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