亀屋万年堂に刻まれた「たゆまぬ挑戦」の歴史 お菓子のホームラン王「ナボナ」の誕生秘話

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――現在、自由が丘が“スイーツの聖地”と呼ばれるようになったのは、この2つのお店の影響が大きかったのでしょうか。

どうもありがとうございます。ただ下地としてはずっとあったかもしれませんが、自由が丘が“スイーツの聖地”として広く知られるようになったのは、11年前の2003年に『自由が丘スイーツフォレスト』(スーパーパティシエが贈る、夢のスイーツテーマパーク)がオープンし、『自由が丘スイーツフェスタ 』(スイーツの街として知られる東京・自由が丘にて、スイーツをメインに家族で自由が丘の魅力を楽しめるイベント)というお祭りが始まってからだと思います。

――そうですか、もっと前からのような印象がありました。

元々自由が丘は、文化人が集う街でした。自由が丘は、田園調布や柿の木坂といったエリアに囲まれ、そこにお住まいの感度の高い女性達によって育てられた町だと思います。

――亀屋万年堂の創業者の方は、どのような方だったのでしょうか?

創業者の引地末治(ひきち・すえじ)は、私の祖父にあたりますが、浅草橋にある亀屋近江(創業宝暦10年の浅草橋の老舗和菓子屋)で修行した後、昭和13年(1938年)に自由が丘に亀屋万年堂を創業しました。

最初は『自由が丘亀屋』という店名だったそうですが、書家の先生が『亀屋万年堂』と命名してくださったそうです。

――“鶴は千年、亀は万年”といいますから、語呂もよくて覚えやすく、縁起のいい名前ですね。

戦地でも続けた「人を幸せにする」お菓子作り

創業者・引地末治社長

――戦争中は、お菓子作りに必要な砂糖や小麦や大豆が手に入らなくなり、一時閉店したそうですが、戦争中の苦労話などをお聞かせください。

末治は、昭和17年(1942年)に政府の食料管理組織・食料営団に任命され、食料の配給や加工、非常食の貯蔵などの仕事に携わっていました。

当時すでに33歳だったので、戦地に行くことはないだろうと思っていたのですが、戦況の悪化からか出征することになり、上海、南京、広東、北ベトナムを転戦しました。

――社長さんが出征されてしまったのですか!

はい。しかし末治は戦地でも、“お菓子は人を幸せにする”という信念を持ち続け、上官に願い出て、限られた材料で工夫してお菓子を作り、兵隊さん達にふるまったそうです。

――ええ!? 戦時中は国内でもお菓子や砂糖が何年も手に入らなかったそうですから、兵隊さん達は大変喜ばれたでしょうね。

末治は兵隊さん達に、どうしてもお菓子を、食べさせてあげたかったんでしょうね……。

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